【集英社】しばき隊・野間易通「SEALDsは安倍政権に対し『国民なめんな』コールをしているが、参加している在日韓国・朝鮮人学生を運動から排除している訳ではない」
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在日は祖国へ帰れ

1: 雨宮◆3.yw7TdDMs 2016/01/26(火)12:44:47 ID:BF5
SEALDsの「国民なめんな」は、文字通りnational pride の発露である。この場合、SEALDsが「国民」という言葉を使ったからといって、運動から在日外国人を排除したと考えるのは間違いだ。なぜならSEALDsには外国籍の学生も参加しているからである。とはいえ、年配の左派や在日コリアンには「国民」という用語への抵抗は大きく(その言葉によって歴史的にさまざまな排除を経験してきたのだから当たり前である)、デモに参加しても「国民なめんな」だけは唱和しないという人が多い。

この「国民」は何なのか。共産党や社民党がごくごく当たり前のように「国民」という用語を使うなかで、一般的には説明が必要な言葉でもないのだが、リベラル社会運動の文脈においては、これは大きなパラダイム・シフトだと私は思っている。

 政治学者の木下ちがやはこの国民問題について、日高六郎を引いて次のように述べている。

「『国民とは国民たろうとする人民だ』『国民とは国の方向を作り出していく人民だ』。そうだとすれば運動に参加した人々こそ『国民』ではないか。政府と国家機構の外で自ら日本の政治を方向づける「被治者」は、自分が権利の上で国家より先にあるものとしての「国民」であることを知りかつ示した」

 日高はこの国民概念を、戦後直後の私生活主義から脱却し、政治的情熱を持ち始めた人々をあらわす言葉として使っています。昨今の国民概念批判が国籍概念とほぼイコールに使うのとは全く違います。ですから、今の運動における国民という言葉は、能動的主体的政治参加が大衆的な広がりをもったことの「指標」として「再発見」されたとも言えるわけです。こうした概念の揺らぎそのものが、いまの日本政治の揺らぎの指標であると捉えることが大事だと思います。[2]

 SEALDsの「国民なめんな」は、政府(state)に向けて国民(nation)が「言うことを聞け」と訴えかけるスローガンであり、国家に明確に対峙する主体としての国民というものが、数十年ぶりに明白な形となって立ち現われたことを示しているのではないか。これは「言うこと聞かせる番だ俺たちが」というスローガンと対になっている。

 日本という国の主権者はあくまで「国民」であり、政府が勝手なことをするのは許されない。とくに運動の主題が「憲法を守れ」というものである以上、これは現在自分が主権者として所属している国民国家の枠組みを直接問いなおすものであり、だとすれば国家に真正面から対峙する政治主体としての国民を名乗るほかないのである。まして政府や右派が国民の代弁者を装って排外主義を煽り戦争への道を開こうとしているときには、はっきりと「国民」の名においてそれを拒否しなければならない。つまり、政府や国家から「国民」を取り戻す必要がある。

http://shinsho.shueisha.co.jp/column/after311/04/index.html

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